かつなり くん(刈谷市)
2013年に刈谷築城480年マスコットキャラクターとして生まれた『かつなり くん』。
刈谷藩初代藩主、水野勝成公のことです。水野勝成は徳川家康の従弟です。『鬼日向』などと評されましたが全国的には無名の武将です。
戦国最強の武将と言えば有名なのは、武田信玄、上杉謙信。
戦国時代一の傾奇者と言えば前田慶次。
戦国一の猛将と言えば柴田勝家、前田利家、後藤又兵衛などなど。
でも、水野勝成はこれらの武将と比べても引けを取らないほどの無双の強さを誇る兵だと個人的には思っています。
生まれ
水野勝成は、国松、藤十郎、六左衛門、忠則との名があります。生まれは、刈谷あるいは岡崎、碧南市鷲塚(碧南市HP)とも諸説があり定かではありません。
宮本武蔵との関係
兵道鏡円明流・二天一流兵法の開祖で、吉岡一門との戦いや巌流島の戦いで知られる剣豪宮本武蔵とは、慶長年間(1596~1615)のあたりから昵懇の間がらだったそうです。
宮本武蔵は関ヶ原の戦いの後、刈谷に赴き藩主だあった勝成に剣術指南をしています。そして、慶長13年、円明流の免許『兵道鏡・奥伝』を授けています。(小田原市立と図書館蔵)
その縁からか、慶長20年(1615)年、大坂の陣で勝成の客分として参戦し、小松山・道明寺合戦で活躍しました。この時武蔵は、17歳の勝俊(勝成の長男)の護衛を務めていたようです。
大坂の陣ののち、武蔵は、水野家家臣中川志摩之助の子を養子にしました。これが、宮本三木之助で、武蔵とともに姫路藩本多忠刻に迎えられ、三木之助は忠刻に仕官しました。
その後武蔵は、播磨国明石藩主小笠原忠真や肥後国藩主細川忠利に招かれ、町割りや造園技術の才能を発揮しています。
寛永14年(1637)の島原・天草一揆の際には、小倉藩主小笠原忠真の軍に、養子伊織とともに出陣しました。
この戦には、75歳になった勝成も出陣しています。この時、『物の用には立つべからず』と勝成を過去の人物とみて陰口をいう諸侯に、武蔵が、『凡慮の及ばざる大将なり。各評判の及ぶ慮あらず』と言い放ったというエピソードもあります。
いかがでしたか?水野勝成は、あの全国的に有名な宮本武蔵とここまで関わりがあった武将なんですよ。
晩年
慶長20年(1615)7月、元和と改元されました。勝成は、刈谷藩三万石から大和郡六万石へ転封となりました。
郡山藩主を4年間務め、五万石を加増され備後国福山藩十万石に転封した時は56歳になっていました。
勝成は福山藩初代藩主としての功績の方が有名かもしれません。
その後、前述したように、75歳で島原・天草一揆の乱に出陣しました。水野家は」諸将の一番後ろに陣を置いていましたが、勝俊を先頭に本丸へ突入し、甚大な被害を出しながらも一番乗りを果たしました。
そして、慶安4年(1651)3月15日、勝成は88歳で逝去しました。
もし、水野勝成に興味を持たれたなら、私も購入して読んだこの『天を裂く』なんか面白いですよ。
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